美濃焼
[ 美濃焼 ]
産地:岐阜県土岐市
規模:★★★★★
特徴:陶土の質が高い
有名:多彩な焼きもの
01 | 02 | 03 | 04 | 05
岐阜県東美濃エリアに根付いた
1300年つづく「美濃焼」
岐阜県東美濃(多治見市・土岐市・瑞浪市)を中心した山間部にある地域で盛んな歴史的産業の「美濃焼」
縄文の古来より焼きものが盛んに作られ、平安時代からは焼きもの産地として栄えました。
今ではこの地域で作られる陶磁器の総称が「美濃焼」と呼ばれています。
歴史も長く、1300年つづく伝統産業。
奈良時代の頃から受け継がれ、起源は奈良時代の「須恵器(すえき)」とされています。
安土桃山時代に全盛期を迎えたとされています。
(室町時代末期に瀬戸の陶工が美濃へ移住してはじまった説もあり)
陶磁器の国内生産約50%を占める焼きもの一大産地です。
01 | 02 | 03 | 04 | 05
美濃焼とは
美濃焼(みのやき)は、岐阜県南東部の東濃地方でつくられている焼きものです。
[エリア:多治見/土岐/可児/瑞浪/笠原]
現在では陶磁器の国内生産の約50%を占めるほどの一大産地となっています。
時代に合わせて継承と技術革新が繰り返され、様々な姿形、色彩の焼きものを誕生させてきました。
「特徴がない」と言われることもありますが、それだけたくさんの技法をもっています。
だからこそ一大産地となり、私たちの食卓には欠かせない存在になっています。
もしかしたら、あなたのご家庭にある器も美濃焼かもしれません。
規模が大きさが物語るように、美濃焼は多様な種類が存在します。
他産地とは異なり、特定の様式をもたず、様々な焼きものがつくられてきました。
多様なモノづくりをしてきたからこそ、文化の継承とともに試行錯誤が繰り返され、現在では特有の生産工程が確立されています。
歴史と伝統に支えられながら、現在の生活にも溶け込んでいます。
01 | 02 | 03 | 04 | 05
美濃焼の歴史
[奈良〜平安時代]
5世紀頃に朝鮮半島から須恵器とろくろ、穴窯が伝えられたことを機にはじまります。
平安時代には、植物灰を用いた灰釉(かいゆう)を施した白瓷(しらし)という、須恵器を改良し釉薬(ゆうやく)を使った灰釉陶器が焼成されました。
[鎌倉〜室町時代]
鎌倉から室町時代には釉薬を用いない無釉陶器がつくられ、その後瀬戸からもたらされた施釉陶器 (素焼き後に釉薬をかけて焼成する) づくりと、時代に合わせて技術を発展させてきました。
[安土桃山時代]
安土桃山時代には、茶道の影響から全盛期を迎えることになります。
このわずか30年の間に志野、織部、瀬戸黒、黄瀬戸など美濃焼の様式は飛躍的に発展し、優品がいくつも生み出されていきました。
この頃の日本では、中国や朝鮮など、海外の華美で高価な茶碗が注目され、国内の和物茶碗は影を潜めていました。
そんな風潮を変えたのが、千利休や弟子の古田織部など歴史に名を残した偉大な茶匠たち。
利休はわびさびを重んじ、「侘び茶」の世界観を求めて茶室から道具、すべてを刷新。
古田織部は利休の枯淡の美とは異なり、大胆かつ自由な美を確立していく。
そんな織部が自身の好みにあわせてつくらせたのが、今日にも残る美濃焼代表的な様式の「織部」
鉄絵による意匠と鮮やかな緑色、大胆かつ変化に姿形は、当時の前衛であった。
その他の代表的な様式「志野」「黄瀬戸」「瀬戸黒」についても織部は影響を与えたとされています。
さらにこの時代に名を刻んだ織田信長や豊臣秀吉、徳川家康。
信長と秀吉は織部が仕えていた人物であり、秀吉は侘び茶の精神に共感し、利休を庇護していたとされています。
こうした武将たちの好みもこの時代の焼き物に影響を与えたと考えられています。
利休、織部などの茶匠や偉人たちの活躍もあり、和物茶碗をつくる美濃の窯場は活性化していきます。
商人たちは岐阜県から京都、大阪方面をはじめ、江戸にも販路を広げていきました。
[江戸時代〜明治時代]
江戸時代に入ると茶陶の中心は京焼に移り、美濃では日常雑器の生産が多くなります。
御深井(おふけ)といわれる鉄絵具で摺絵を施した美濃焼や、江戸後期には染付、青磁や白磁などの陶器が生産されるようになりました。
また、江戸以前にあった窯株制度(窯株の所有者のみが生産できる)が1872年(明治5年)に廃止され、技術改革による品質、生産力の向上もあわさり美濃焼の生産量は増加していきました。
明治時代に入ると、染め付け顔料の唐呉須(とうごす)の輸入開始により発色が安定し、銅板やスクリーンプリントなど様々な技法が開発されていきます。
明治時代中頃には生産体制が確立。
低コストを実現するために製品別分業が発展します。
技術革新も後押しになり、安価かつ大量生産できる技術を構築されていきました。
[大正時代〜昭和時代]
大正時代に入ると、美濃焼はさらに加飾面での技術開発が活発になります。
それにともない、美術価値の高い工芸品をつくる名陶工も現れるように。
大正時代末期には、電気の供給開始により機械化が進み生産規模を拡大し、窯も登り窯から炭釜へと変容しました。
昭和時代には高級品の生産やタイル製造もはじまり、美濃焼は名実共に日本一の生産量を誇る焼きものとなったのです。
現在では、日本最大の陶磁器生産拠点となるほどの一大産地となり、日本国内の陶磁器生産量の約50%を占めるほど。
伝統と技を受け継いだ職人たちは、窯ごとにオリジナリティ溢れる陶磁器作りに情熱を注いでいます。
01 | 02 | 03 | 04 | 05
多彩な種類がつくられた美濃焼の
代表的な種類「四様式」
美濃焼の特徴は多様な種類が存在すること。
美濃焼は特定の様式を持たず、15種類が伝統工芸品として指定されています。
その中でも歴史がある代表的な種類が美濃焼の「四様式」です。
[志野]
細やかな貫入 (かんにゅう) と、ほんのりと赤みをおびた白い肌が美しい志野。
長年日本人が憧れてきた念願の「白い焼きもの」の誕生でした。
同時に、従来の型押しや彫りでなく、素地の上に直接絵を描くことを可能にした画期的なうつわでした。
桃山時代に美濃の大窯で焼かれ、長石釉(志野釉)を掛けた白を基調とするやきもの。
茶碗を中心に、水指や香合など茶道具に多く用いられ、花入・向付・鉢などもつくられました。
また、技法によって「無地志野」「絵志野」「紅志野」「赤志野」「鼠志野」「練込志野」があります。
絵志野は日本で初めて本格的に筆を用いて文様が描かれた焼きものとされています。
[織部]
安土桃山時代に美濃の連坊式登り窯で焼かれた斬新なやきもの。
武人にして茶人であった古田織部が、自身の好みに合わせて造らせたといわれています。
茶碗のほか、向付や鉢などの懐石道具に優品が多くあります。
技法によって「青織部」「赤織部」「黒織部」「織部黒」「総織部」「鳴海織部」「志野織部」「弥七田織部」「唐津織部」など色も多彩で、形や模様も様々なものが生み出されました。
ゆがみも良しとする大胆な造形、鉄絵(鉄を含む顔料で描かれた絵)による意匠や鮮やかな緑色は、当時は革新的でした。
[瀬戸黒]
安土桃山時代に美濃の大窯で焼かれた黒釉のやきもの。
黄瀬戸が食器を中心としたのに対し、瀬戸黒は茶碗のみが作られていました。
焼成中の窯の中から引き出して急冷することにより、特徴的な漆黒の色味を生み出す技法。
それまでの黒い茶碗はどれも赤みを帯びたもので、「引出黒 (ひきだしぐろ) 」とも呼ばれる瀬戸黒の「漆黒」の茶碗は、茶人たちを喜ばせたといわれています。
形も従来の丸みを帯びた茶碗とは異なり、高台が低く、裾の部分が角ばった半筒形。
既存の概念にとらわれない自由な造形も人々を魅了しました。
[黄瀬戸]
漆黒の瀬戸黒に対して、黄色のやきものが黄瀬戸。
鉢や向付などの食器類のほか、花入や香炉があり、胆礬(たんぱん)の緑や鉄彩の茶を伴うものが代表的。
美しい淡黄色の肌が特徴。薄づくりのうつわに様々な草花の文様を描き、胆礬(緑の斑点)や褐色の焦げを楽しむ「あやめ手」のほか、厚みがあり、ほとんど文様や焦げのない「ぐいのみ手」がある。
01 | 02 | 03 | 04 | 05
美濃焼の特徴
このように、美濃焼には長い歴史があり、時代に合わせて私たち人間の生活を支え、日本の焼きものを牽引してきました。
現在では焼きもの一大産地として、全国一の陶磁器生産量を誇り、生活の器として広く一般家庭で使われています。
美濃焼は、国内最大規模になっただけに「特徴がない」と捉えられることがありますが、国内最大規模になったからこそ、美濃焼ならではのモノづくり文化が形成されていきました。
一大産地という規模が、他産地にはできない魅力になっています。
「美濃焼1300年。ここにしかない手しごと」
特徴①:文化の継承とともに職人が試行錯誤を繰り返してきた多様性
特徴②:規模が大きいからこそ生まれた分業制
特徴①:文化の継承とともに職人が試行錯誤を繰り返してきた多様性
1300年もつづく美濃焼は、時代に合わせてモノづくりをしてきたので、多彩なモノづくりを可能にしています。
歴史とともに培われた技術や知恵が奥深く、ほとんどの技法がこなせる地であることから、他にはない多彩なモノづくり文化が形成されていきました。
新しい技法、失われつつある技法、日々工夫を重ねる中で「ここにしかない手しごと」が存在しています。
伝統の技と高度なテクニックによって、多種多様な器が生産され、国内だけでなく世界各国でも認められています。
陶芸品以外にも和洋食器・インテリア用品・タイルまで幅広く生産されています。
特徴②:規模が大きいからこそ生まれた分業制
美濃焼発祥の地、岐阜県土岐市は見渡す風景すべてが1つの巨大な工場のような街です。
ひとつのものをつくる時、いくつもの工程ごとに熟練した専門職人が存在しています。
早くから分業化を進めた美濃焼は、多種多様なオーダーに対しても高いレベルで対応でき、大量生産も可能にしてきました。
美濃焼1300年、この地で一緒にものづくりができること。